このエントリーにタグ付けするなんて、僕にはできない。

はてなブックマーカーとして広大なウェブを眺めていると、そりゃもうたくさんのエントリと出会う。ウェブの奔流で離れてしまわないように、はてブという命綱でエントリと自分を繋ぐ。綱にタグという名前をつけて、他の人も辿り付きやすくする。

そんななか、奔流の真ん中で手に転がり込んできたあまりにもまぶしい石。そういうエントリーが確かに、ある。そういうエントリーを見ると言葉が出ない。コメントなんか付けられない。そして、タグも付けられない。なんか貼り付けて人前にもってくのがもったいないような気になるのだ。そんな簡単に見つけられるようにしちゃいけない気がするのだ。

でも、綱だけは結ばせてください。そう思って、ブクマする。そして奔流に戻す。
自分のブクマの中からだって探すのは難しくなる。でも確かに繋がっている、そう思えるだけで良い。そんなエントリーを見るために、ウェブの流れに身を置いているのかもしれない。

そんなわけで、b:id:comnnocom 中で、コメントもタグもついていないエントリはある意味で最高の評価をしたものです。


嘘かどうかは、君が決めるんだ。

ウェブアプリの2.0感と気持ちの問題の1.0感。

まあ、はてブのスタイル変更の話なんですけど。

web2.0の特色のひとつに、ソフトウェア・リリースサイクルの終焉、「永久のベータ版」なんて考えがあるそうですけれども、今回のはてブのスタイル変更はまさにそんな感じだったかなと。
とりあえず変更してみて、それに対する(一部の)ユーザーの意見を反映させて3日後に再変更。2.0的だなあって。

でもこれってユーザーにとっちゃ、いつ機能や仕様が変更されるかわからないという意味でもあって、あんまり気持ちよくないのは確か。特にウェブアプリの場合はスタンドアローンなアプリと違って、強制的に「バージョンアップ」させられるしかないわけで、「勝手に」変えられるという気がどうしてもしてしまう。

で、web2.0な世界がやってくるとして、こういう「バージョンアップ」が日常的になるのだろうか。だとしたら、我々の1.0な「気持ちの問題」は解決されるんだろか。それとも我々の気持ちも2.0にアップグレードしなきゃいけないのか。

んでも、サービス提供側も、「2.0だぜ、永久にベータ版だぜ、いつでも改良するぜ、文句言う奴はユーザーだ。文句言わない奴は訓練されたユーザーだ。ホント web2.0は地獄だぜ! フゥハハハーハァー 」じゃあこまるわけで。
なんたって、あれだ、web2.0には集団知って特色もあるんだから、うまいことユーザーの意識を吸収できてはじめて本当のweb2.0的なサービスなんだろな、と思う。

似てる。

はてなセガウィルコム

いや、それぞれの会社がというよりもそれぞれの会社の顧客イメージがというべきかな。
全部好きなおれが言うんだから間違いない。
というわけで、『ドッキンばぐばぐアニマル』の携帯電話業界編と、ブログサービス業界編を読みたいです。

以下、"X"にそれぞれの社名を当てはめてお楽しみください。

「なんで X が好きなの?」

「へ? 普通に他の会社と見比べてみれば当然の判断と思うけど。なんだかんだいって、X みたいなことやる会社って他にないんだよね。だから X が好きっていより、ごく正当な判断をしたら自然と X を選ぶことになったっていった方が正確かもね。大体 X にしたって、悪い面はたくさんあるよ。商売がわかってないっていうか、自分の好きなことやってるって言うか。初心者置いてけぼりだし。だからいっつも『X は3年早かった』って言われちゃうんだよな。大体スタッフが……」

「うんよくわかったもういいよ。」

ここらでもっぺんはてブのタグとコメントについて考えてみようぜ。

エントリページの見た目が変更されたのを機にタイトルのようなことを書いていたらブラウザクラッシュでパー。
ちょっと心が折れたので箇条書きスタイルでお茶を濁すことにする。

  • タグとコメントの性質の違い。
    • 国語的にはコメントは文、タグは単語。
      • だからタグはタグクラウドみたいな状態でも認識できる。コメントはそうはいかない。
      • 今回の変更でコメントの文頭がある程度揃うので読みやすくなった。
    • システム的にはタグはメタデータとして活用可。コメントはそうではない。
  • タグとコメントの重要性の違い。
  • 要望。
    • タグはコメントの後ろがいい。コメントが読みやすいから。
    • タグ芸を見たいのなら、誰がそのタグを付けたかがわかりやすいほうがいい。
  • いろいろ考えてくださってお疲れ様です。期待してます。

倫理を抜きにして考えるということ。

テンプレ

AさんはBさんにあることをしました。
Bさんは以前からそのことをされたくないと思っていたため、Aさんのこの行為に対して謝罪と賠償を請求しました。

事例1

AさんはBさんを殺そうとしました。
Bさんは以前から殺されたくないと考えていたため、Aさんのこの行為に対して謝罪と賠償を請求しました。

事例2

AさんはBさんのサイトに無断リンクをしました。
Bさんは以前から無断リンクされたくないと考えていたため、Aさんのこの行為に対して謝罪と賠償を請求しました。


あなたは、この二つの事例において、どちらの言い分が通ると考えるでしょうか。
あなたがどう考えるにせよ、倫理を抜きにして考えるとするなら、どちらの事例でも同じ人が勝たなければなりません。事例1でBさんの言い分が通ると考えるならば、それと同じ理由で事例2でもBさんが勝たなければなりません。


倫理を抜きにして考えるっていうのはそういうこと。
倫理っていうのは、行為や思想に重み付けをするシステムのことだから。

倫理を抜きにして考えるっていうのは、あなたが情熱を傾けて行っていることと、あなたが取るに足りない、むしろ害悪だと考えていることの区別をつかなくするということ。

ひとがひとりのひとをころすこと

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060307/kangae060307にて、「『何故、人を殺してはならないか、何故自殺してはならないか』を倫理を入れずに答えよ」という問題が出されたので乗ってみる。
以下、詭弁全開。ご注意あれ。


まず、指摘したい点が一つ。「なぜ人を殺してはいけないか」という問いには、一つの前提が隠れています。それは「人は人を殺せる」ということです。やっても良いか悪いか以前に、やろうと思えば出来てしまうからこそこの問いが生きるわけです。できもしないことをやってもいいかとは誰も問わない。たとえば、「何で光速超えちゃいけないんですか?」と問うても不条理ギャグにしかならない。


では、やろうと思えばやれちゃうことを「してはいけない」と言えるのでしょうか?
そのための一つの手法がメリット・デメリット、プラス・マイナスを比べて、デメリットやマイナスのほうが多いからしてはいけない、という言い方。
いわゆる功利主義、「最大多数の最大幸福」的な考え方。んで、この考え方に常に付きまとう問題が「幸福の量や質をどうやって決めるのか」という点。


今回 ululun さんが出した答えも、ここから大きく抜け出ることができたものではないと思います。

「その死を超えられる生を産み出す事が出来ないのなら、殺してはならない」

ふむ、確かにそうかもしれません。では、僕が誰かを殺すことで、僕が新しい僕に生まれ変わると僕が信じたら、殺してもいいのでしょうか。新しい僕が殺した人「未満」であることは誰が決めてくれるのでしょう。
そしてなにより、「死を超えられる生を生み出すことができない」というのを認めたとして、それは「殺さない方がいい」という理由になっても、「殺してはいけない」と理由にはならないと思うのです。だって、殺せるんだもの。


だったら殺してはならない理由は存在するのでしょうか。その理由こそが倫理や法律じゃねえのって思います。でも今回はそれじゃルール違反なので、のーみそこねこねして捻り出した結論はこれ。


「人は人を殺すことはできない」


正確には「人が人を完全に殺すことは(ほぼ)不可能」というべきでしょうか。
「なぜ人を殺してはならないか」という問いに隠れた前提条件を覆してやるわけです。
どういうことかといいますと、よくあるじゃないですか、漫画とかドラマで「俺が死んでも、お前達の心の中に生きている」って言う台詞が。これ、正しいと思うんですよ。


例を出しましょうか。ちょっと大げさになりますが、イエスという人のことです。彼は彼の話すことを快く思わない人たちによって処刑されました。殺されました。
でも、どうでしょう。今もイエスの言葉によって人生を変える人すらいます。イエスを十字架にかけた人たちは、イエスを本当に「殺せた」のでしょうか。


エスじゃなくたっていいです。孔子でも、織田信長でも、ヒトラーでも。彼らは本当に「死んだ」のでしょうか。


そんな著名な人物じゃなくたっていいです。「誰かさん」でいいです。「誰かさん」を殺したとして、殺した人はもう「誰かさん」に会わずにすむかもしれません。でも「誰かさん」の親兄弟、親戚、友人は「誰かさん」を知っています。「誰かさん」のいた世界は消えないのです。
では「誰かさん」が本当に天涯孤独だったら?それでも「誰かさん」を殺した当の本人の心に、記憶に「誰かさん」は生きています。Aさんを殺す前の自分からは逃げられないのです。


それって本当に「殺せた」ことになるの? 僕が本当に殺したい人ができたとしたら、それでは我慢できません。『ドラえもん』に出てくるひみつ道具どくさいスイッチ」でも使わない限り本当に「殺せた」ことにはならないのだと思います。

となると本当に「誰かさん」を殺すためには「誰かさん」以外のほとんど全ての人を殺すことになります。「本当に、誰とも、関係のない人」がいればそこでその連鎖は止まるかもしれませんが、そんな理想的な人はいないでしょう。

かくして世界には自分ひとりだけに。そして、殺した全ての人を、私は知っている。ならば「誰かさん」を殺すためにはひとり残った自分を殺すしかないわけで。


そして誰もいなくなった


自殺も同じです。自分と関係のある人、その人と関係のある人、またその人と関係のある人全て、つまり自分以外の人すべてを殺してからでなければ、自分を殺すことはできません。
本当に完璧に一人の人を殺すってのはそういうことなんですよ。


というわけで、「なんで人を殺してはならないか」と聞かれたら「そんなことは不可能だから」と答えます。
これは倫理の混ざった答えでしょうか。僕はそう思いません。

全はてなスタッフ入場!

はてなーの皆様におかれましてはご存知の通り、はてなスタッフはみんなキャラが立っているわけですけれど、そういう場合に有効なテンプレが『グラップラー刃牙』の「全選手入場!」です。
というわけで、「全はてなスタッフ入場!」を考えてたんだけど途中でやめた。
けどもったいないので書いておこう。

イベントがあり次第、ロゴにしまくってやる!!
はてなグラフィック担当 id:tikedaだァッ!!


はてラボ(なんでもあり)ならこいつが怖い!!
はてなの教育TVウォッチャー!! id:wanparkだ!!


はてなブックマークを作りたいからはてなに入ったのだ!!
プロのコーディングを見せてやる!!id:naoya!!


シリコンバレーの土産に『ウェブ進化論』とはよく言ったもの!!
達人の奥義が今 web2.0で爆発する!! ミューズ・アソシエイツ id:umedamochioだ───!!


ユーザーの前でなら私はいつでもDJだ!!
燃えるれいこん 近藤令子!! 本名で登場だ!!


特に理由はないッ!! 社長が変なのは当たりまえ!!
id:reikonにはないしょだ!!! LASIK開眼!
id:jkondoが来てくれた───!!


とまあこんな具合に考えてきたのだけど、なんでやめたかというと、オチがアレ以外思いつかなかったから。
というわけで、残りはweb2.0の精神にのっとり、見てる人に投げてみる。はてブコメントでも、ここのコメント欄でも書き込んでくれると嬉しいです。内容や人物が被ってもいいです。
テンプレ→http://www.geocities.jp/enter_matome/

茶色の野獣が帰ってきたッ
どこへ行っていたンだッ 名誉会長ッッ
俺たちは君を待っていたッッッしなもんの登場だ────────ッ