ひとがひとりのひとをころすこと

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060307/kangae060307にて、「『何故、人を殺してはならないか、何故自殺してはならないか』を倫理を入れずに答えよ」という問題が出されたので乗ってみる。
以下、詭弁全開。ご注意あれ。


まず、指摘したい点が一つ。「なぜ人を殺してはいけないか」という問いには、一つの前提が隠れています。それは「人は人を殺せる」ということです。やっても良いか悪いか以前に、やろうと思えば出来てしまうからこそこの問いが生きるわけです。できもしないことをやってもいいかとは誰も問わない。たとえば、「何で光速超えちゃいけないんですか?」と問うても不条理ギャグにしかならない。


では、やろうと思えばやれちゃうことを「してはいけない」と言えるのでしょうか?
そのための一つの手法がメリット・デメリット、プラス・マイナスを比べて、デメリットやマイナスのほうが多いからしてはいけない、という言い方。
いわゆる功利主義、「最大多数の最大幸福」的な考え方。んで、この考え方に常に付きまとう問題が「幸福の量や質をどうやって決めるのか」という点。


今回 ululun さんが出した答えも、ここから大きく抜け出ることができたものではないと思います。

「その死を超えられる生を産み出す事が出来ないのなら、殺してはならない」

ふむ、確かにそうかもしれません。では、僕が誰かを殺すことで、僕が新しい僕に生まれ変わると僕が信じたら、殺してもいいのでしょうか。新しい僕が殺した人「未満」であることは誰が決めてくれるのでしょう。
そしてなにより、「死を超えられる生を生み出すことができない」というのを認めたとして、それは「殺さない方がいい」という理由になっても、「殺してはいけない」と理由にはならないと思うのです。だって、殺せるんだもの。


だったら殺してはならない理由は存在するのでしょうか。その理由こそが倫理や法律じゃねえのって思います。でも今回はそれじゃルール違反なので、のーみそこねこねして捻り出した結論はこれ。


「人は人を殺すことはできない」


正確には「人が人を完全に殺すことは(ほぼ)不可能」というべきでしょうか。
「なぜ人を殺してはならないか」という問いに隠れた前提条件を覆してやるわけです。
どういうことかといいますと、よくあるじゃないですか、漫画とかドラマで「俺が死んでも、お前達の心の中に生きている」って言う台詞が。これ、正しいと思うんですよ。


例を出しましょうか。ちょっと大げさになりますが、イエスという人のことです。彼は彼の話すことを快く思わない人たちによって処刑されました。殺されました。
でも、どうでしょう。今もイエスの言葉によって人生を変える人すらいます。イエスを十字架にかけた人たちは、イエスを本当に「殺せた」のでしょうか。


エスじゃなくたっていいです。孔子でも、織田信長でも、ヒトラーでも。彼らは本当に「死んだ」のでしょうか。


そんな著名な人物じゃなくたっていいです。「誰かさん」でいいです。「誰かさん」を殺したとして、殺した人はもう「誰かさん」に会わずにすむかもしれません。でも「誰かさん」の親兄弟、親戚、友人は「誰かさん」を知っています。「誰かさん」のいた世界は消えないのです。
では「誰かさん」が本当に天涯孤独だったら?それでも「誰かさん」を殺した当の本人の心に、記憶に「誰かさん」は生きています。Aさんを殺す前の自分からは逃げられないのです。


それって本当に「殺せた」ことになるの? 僕が本当に殺したい人ができたとしたら、それでは我慢できません。『ドラえもん』に出てくるひみつ道具どくさいスイッチ」でも使わない限り本当に「殺せた」ことにはならないのだと思います。

となると本当に「誰かさん」を殺すためには「誰かさん」以外のほとんど全ての人を殺すことになります。「本当に、誰とも、関係のない人」がいればそこでその連鎖は止まるかもしれませんが、そんな理想的な人はいないでしょう。

かくして世界には自分ひとりだけに。そして、殺した全ての人を、私は知っている。ならば「誰かさん」を殺すためにはひとり残った自分を殺すしかないわけで。


そして誰もいなくなった


自殺も同じです。自分と関係のある人、その人と関係のある人、またその人と関係のある人全て、つまり自分以外の人すべてを殺してからでなければ、自分を殺すことはできません。
本当に完璧に一人の人を殺すってのはそういうことなんですよ。


というわけで、「なんで人を殺してはならないか」と聞かれたら「そんなことは不可能だから」と答えます。
これは倫理の混ざった答えでしょうか。僕はそう思いません。