文芸としての駄洒落

オヤジギャグである。
:デイリーポータルZ:父のダジャレを書き留める・花の写真


このすがすがしいまでのオヤジギャグの洪水に、私の中の駄洒落を愛する心がうずきだした。
「本当の駄洒落はこんなもんじゃないんだ!」
なのでこれから駄洒落について書き連ねていこうと思う。

駄洒落のクオリティを構成する要素

第一に「字面、発音の一致」が挙げられる。これがなければ文字通り洒落にならない。
第二に「文の長さ」を挙げておこう。これは一般的に短いほうがよいように思われる。全く意味の違う語が、発音が似ているというだけで結び合わされるのが駄洒落である。これは簡単なことではなく、短い文で成立させるほど技量が高いと言えるだろう。
第三に挙げるのは「文の内容」である。上記 2 要素を満たした上で、どれだけ面白い文が作れるかが駄洒落士としての腕の見せ所である。

何故オヤジギャグは駄洒落としての完成度が低いか

冒頭に挙げたページにあるオヤジギャグを例にとって説明しよう。

きれいな景色を見に来て、そんなケーシキ(形式)ばったことを言わなくてもいいんだよ。

「景色」と「形式」、「けしき」と「けいしき」によって駄洒落を成立させている。これは問題ない。
しかし! しかしである。いかんせん長すぎる。いくらなんでも駄洒落としては長い。まだしも「形式的な景色」のほうがすっきりするではないか。
しかも、文の内容がつまらない。「きれいな景色を見に来て、そんな形式ばったことを言わなくてもいいんだよ」真っ当すぎる。


先述したが、駄洒落という言語遊戯はもともと関係無い言葉どうしを、発音の類似によって繋げるものである。それが大前提だ。
しかし、ただつなげればいいというものではない。文として成立していなければならないのだ。この例のように前後に言葉をいろいろくっつければそれは簡単だ。それをいかに短くするか、そこに駄洒落士の巧みさが問われるのだ。この点から見れば、例に挙げたような駄洒落は、オヤジギャグという蔑称を与えられたとしても、弁護できない。

文芸としての駄洒落

先に挙げた要素をすべて高いレベルで満たした駄洒落は、俳句や短歌と並べて語られるべき文芸といえるだろう。
だが、そのようなレベルの駄洒落にはそうそうお目にかかれない。長く言い続けられてきた古典的な駄洒落といえど、例外ではない。

例えば「電話に出んわ」。
これはまさしく駄洒落のスタンダードナンバーである。一致度、長さ、ともに申し分ない。しかし文の内容はどうか。電話に誰も出ないことは日常的にあり得る。面白味に欠けると言わざるを得ない。
他にも、「猫が寝込んだ」にも同じことが言える。「ワニが輪になる」は意外性があるが、一致文字数が二文字というのは技巧的には物足りない。


さらに完成度が高い駄洒落として「アルミ缶の上に在るミカン」が挙げられるだろう。驚きの五文字完全一致が炸裂だアーッ!! しかもアルミ缶の上にはみかんは普通ないぞ! お前わざと置いただろう!
という感じで、非常にいい。


とまあここまで能書きを垂れてきたが、創作には枠をぶっ壊すことが必要不可欠である。その先にしか感動はないのだ。駄洒落でそんなことができるのだろうか。
できる。できるのだ。


布団が吹っ飛んだ


凄い。としか言いようがないほど凄い。「ふとん」と「ふっとん」完全一致ではない。しかしそれが文としての意外性、勢いを増している。
「布団」が「吹っ飛んだ」。ありえない。
駄洒落でしか成立しない文。想像して欲しい。布団が吹っ飛ぶところをご覧になったことがあるだろうか。単に飛ぶのではない、吹っ飛ぶのだ。
ありえない文が、駄洒落だという理由だけで、そこに居て当然のような顔をして存在を許される。
「言葉には力がある」それを実感する。
しかも、必要最低限の長さ。これ以上短くしようがない。


これを超える駄洒落は存在するのだろうか。という気持ちになる。
きっとあるのだろう。言葉の世界は無限大だ。それを探して僕らはこれからも文を書き、読み、話し、聞くのだろう。